motolovelyboy`s diaryから越してきました

十月のオシマイは / シネラマ「西部開拓史」のネット記事

 

元となる事典のようなHP「ロイド・シアター」は本日中で閉鎖になります。

お疲れ様でした。

名劇場 テアトル東京とシネラマ「西部開拓史」のネット記事

ちょっと見にくいですが。



遥かなる「テアトル東京」と「シネラマ西部開拓史」エピソード!
(The going to the theater experience episode!)

東京に生まれ、横浜在住の会社経営者であるオンリー・ザ・ロンリーさんは、幼少の頃から猛烈な映画フアンで、日本で始めて公開された「シネラマ映画」は、すべてリアルタイムで鑑賞され、その「シネラマ」に賭ける迸(ほとばしる)思いは、尋常とは言いがたい映画ファンだと感じいっています。そのオンリーさんより、下記のようなエピソードが送られてきました。 

『これがシネラマだ』(This Is Cinerama)は、1952年にアメリカで製作され、当時、全世界で17館の劇場で公開され、このうち日本では、東京の帝国劇場と大阪のOS劇場でしか公開されませんでした。シネラマの劇映画版『西部開拓史』(How the West Was Won)は、1963年11月25日に、東宝とMGMの共同配給によりテアトル東京とOS劇場でロードショウ公開されました。 


これらの当時の鑑賞の想いを、振り返って下記のように述懐されてます。尚、オンリー・ザ・ロンリーさんからは、文章の他に「西部開拓史」のパンフレット、テアトル東京提供の「劇場3枚」の写真を自ら手配されて送って頂いたもです。更に画像として「旧帝国劇場」の写真の他「画像1~3」迄の写真は、当方で参考画像として掲載しました。 

追伸 
待ちに待った最終章が業務多忙の中をくぐり抜けようやく届きました。日々のスケジュールが満杯のオンリーさん、執筆作業大変ご苦労さまでした。それにしても誰よりもシネラマを愛し、それに深い造詣に尊敬を申し上げますと共に寄稿に深謝致します。(2012.5.29. ロイド)

(第一章) 


「旧帝国劇場」
かれこれ半世紀以上も大昔の忘れもしない1955年の春の頃でした。東京は日比谷の皇居のお濠の前にあった旧帝劇で、まるでオスカーの受賞式のように歩道からレッド・カーペットが敷き詰められ、子供だった僕はオープニングからいきなり"This is CINERAMA !"とまるで雷鳴のごとく轟き渡るアナウンスとサウンドに驚愕しました。それはそれはもう目が回るようにして、ローラー・コースターの大迫力に酔った『これがシネラマだ』に始まり、スターが一人も出ない「3パネル式観光映画」5作品全て観ました。このとき、この大スクリーンと高品質な音響を誇るシネラマ・システムを活用して西部劇を撮らない手はないだろうと想ったものです。その後、かの名劇場「テアトル東京」で、まさに輝くばかりのスター・オン・パレードの『西部開拓史』が公開されると聞いた時には、椅子から転げ落ちるほどに実に嬉しかったです。 


「テアトル東京」
(写真提供:東京テアトル
銀座の入り口にあたる京橋の「テアトル東京」は、上野方面から新橋方面を結ぶ中央通りの左側(東側)に位置し、確か通りから数十歩上った緩やかな斜面の上に鎮座していました。途中、レンガ・ブロックで囲われた花壇では草花が美しく四季を彩り、シュロの大きな木があったり近年の土地の有効活用(容積率目いっぱいに建てる)を考慮した経済行為と比較したら、それはそれはとても余裕があった訳です。まるで大英帝国最高裁判所(行ったことないです。ペコリ)を彷彿させる旧帝劇のマホガニーをふんだんに使用した古典的な格調の高さに比べて「テアトル東京」は、まさにモダン建築そのものの建物でした。 

淡いブルーだったか、全席指定席のシートはリクライニングで、それに連動して座面が前に少しだけ動くのです。あの当時、他の高級映画館に、こんなシートはあったかしらね?。いや、現在でもないのでは・・・。ですから場内では「おせんにキャラメル~」は絶対にあり得ない上品な劇場だったのです(笑)。そうそう今では当たり前ですが、スロープが付いていたから前の人の頭でスクリーンが見にくいなんて皆無でありましたよ。因みに同劇場で観た作品の一つに70ミリ大作『ベン・ハー』があります。この作品の「テアトル東京」での観客動員数は953,334人(上映回数・期間はメモ記載なし)で1位、2位が西部開拓史で622,521人(同)です。凄いですね。この数字は何年か前に《閉館》したテアトル系の劇場に誇らし気に貼ってあったポスターに書かれていました。《閉館》とは、辛い単語です。 

テアトル東京劇場の観客席 

「当時のテアトル東京劇場の観客席」(写真提供:東京テアトル

さて『西部開拓史』の話に入ることにしましょう。僕がテアトル東京で観たのは、公開して1ヵ月後の12月(1963)のクリスマス・イウ゛でした。季節と料金(恐らく2,500円?、余り記憶に自信なしです。最近の3D料金は2,400円~2,600円ですか?。価値を比較してみて下さい)や場所柄か《よそいき》の服装をした観客でいっぱいだった記憶です。まぁ~《クリスマス》だし《ギンブラ》(銀座周辺の散歩)のついでに見ようか、といったところでしょうか。 

添付した劇場パンフ(左下)でお分りになるでしょうが、表紙は、ただの「シネラマ」表示だけで「スーパー・シネラマ」とは記されていませんし、更に「シネラマ劇映画第1作」になっていますね。東宝東京テアトルもMGMジャパン?も勉強不足!(爆)。 

テアトル東京劇場内部 

「当時のテアトル東京劇場シネラマ・スクリーン正面」(写真提供:東京テアトル

はっきり覚えているのが、座った席は前から7番目のど真ん中でした。過去に既に旧帝劇で6作品のシネラマを観ていますからベスト・ポジションは分かっていました。湾曲したビッグ・スクリーンで作品を鑑賞するのには留意点があります。 

オーバーに説明すると、例えば左はしに着席してスクリーンを見ると右パネルの映像は、顔は右に向くからほぼ直角に見ますからよく見えます。でも左パネルは顔は正視して見ても、パネルを斜めから見ることになりますからへんてこりんな映像ですね。逆も然りで、右はしに座ったら右パネルの映像は見にくいのです。 

この現象は極端に湾曲したスクリーンに起因するものですから当然と言えば当然なんです。しかしシネラマ特有の湾曲スクリーンは《観客を包み込むダイナミズム》(つまり映像のサラウンドですね)にありますので一番前は首が痛くなりますからノー・サンキューとして、5~10列目の中央がシネラマを存分に堪能出来るベスト・ポジションだと確信します。 

そうこうお喋りしてるうちに上映のアナウンスがありましたから静かにしましょうか。上映開始の合図に合わせて場内は徐々に暗くなります。真っ暗ではなく、隣りの人の横顔は十分に分かります。カーテンは開きません。映像は出ません。楽曲が流れ出します。そうです、《序曲》です。劇場で見てなくてDVDでしか見てない方の為に説明すると、ジョン・ウエインの『アラモ』(1960)もそうですが、あの頃の大作には、本編開始前には《序曲》がありました。劇場での《序曲》は楽曲だけで映像は出ません。しかしDVDでは静止画に《OVERTURE》と表示され楽曲が流れますね。ホントは楽曲だけにしたいのでしょうが、映像が出ないと《ひょっとしてプレイヤーが故障したか?》と不安になるから製作側の配慮かも知れません。 

余談になりますがビデオ・テープで『アラビアのロレンス』(1962)を見たら「序曲です。映像は出ません」と演奏が終わるまで字幕が表示されていました。親切と思ったら監督デウ゛ッド・リーンの指示だそうです。 

シネラマ第1作と記載されたポスター

「西部開拓史」
(パンフレット表紙)
さぁ~、この4分25秒の「序曲」、ひとことでズバリ、素晴らしいです!。アルフレッド・ニューマンは伊達に長年にわたりFOXの音楽部長をやってません、工夫と力量が感じられます。基本は五つの曲の編成曲で構成され、開拓民の求める新しい土地と生活への期待と夢、未来への希望が、時に勇猛に、時に哀愁を伴い観る者へとひしひしと訴えかけます。ニューマンのオリジナル曲に加え、古くから伝わる民族音楽をケン・ダービーとその合唱団の卓越したハーモニーと相まって、詩情豊かに本編への期待感に繋げて行きます。 

この序曲には開拓民の最大のテーマである《Promised Land》と言う大きな夢があるのです。彼らは高らかに歌い上げるではないですか、《I'm Bound For The Promised Land》と!!。一説には当初はディミトリー・ティオムキンが担当する予定だったのが眼の病気で降板し、アルフレッド・ニューマン(そして80余人のMGMオーケストラを忘れてはいけません)に回ってきたようです。個人的にはティオムキンでは《重すぎる》きらいがあるから、アルフレッド・ニューマンで大正解!と思う僕であります。 

序曲にとどまらず、シークエンスにフィットした全48曲のサウンド・トラックは、繊細さとダイナミックさをとり混ぜた優れた作品ばかりで、頂点を極めた映画音楽の中ではNo.1と絶賛したいのであります。言うまでもなくサミー・カーンの偉業も忘れません。 アルフレッド・ニューマンは自らがこの《西部劇の時代》に実際に生き、《開拓する側》の視点に立って民衆を書き上げたと言っても過言ではないと断言したいです。
さーさー、序曲が終わるとカーテンが左右に開きますよ~・・・。 

「西部開拓史パンフレット」 (Only The Lonely 氏談) 
この劇場パンフレットの表紙は、ただの「シネラマ」表示だけで「スーパー・シネラマ」とは記されていません。更に「シネラマ劇映画第1作」になっています。東宝東京テアトルもMGMジャパン?も勉強不足!(爆)。 

to be continued・・・・
2011/11/09 Only The Lonely 


(第二章) 

to be continuedなんてカッコウつけて書いてしまったのに、この第2章ではちょいと脱線するかも知れません。 

比較的高い山に登ったことがある人なら一度は経験があるのではないでしょうか?。悪戦苦闘して登り切った山頂での満足感と爽快感は格別なものです。山頂では雲海を見渡しながら大《パノラマ》に感動し、あれが富士山、これが八ケ岳と指差してバッグから取り出したカメラのファインダーを覗きながら恐らく右利きなら左から右へ向けて、一回ではワイドな景色を撮り切れないから分割して何回かに分けてシャッターを切る。 

その際の注意点は、分割する目印を明確に決めてカメラの高さを一定に維持し、あくまでも平行移動、つまり水平にカメラをパンし軸足をしっかり保持しながら腰を回します。そして数日後、出来上がった何枚かのカラー・プリントを定規とカッターを駆使して、どこか共通するポイント(山とか樹木)の位置や高さを合わせて・・・・、 

「参考画像①」(沖縄)

この作業を何回か繰り返してテープでとめれば、かなりワイドなパノラマプリントの完成とあいなります。
えっ、これって「西部開拓史」と関係ないじゃんと言われるかも知れませんね。いいえ、関係ありなんですよ。と言うか「シネラマ」に関係ありと言った方が良いかな。 

ここに貴重なデータがあります。
[全米TV保有台数]、1949年が95万台、1952年が1,100万台。
[劇場入場者数]、1948年が週9,000万人、1952年が週5,600万人。 

当時のTVの驚異的な台数の伸びと劇場入場者数の激減ぶりは凄いです。見事なくらい反比例しています。こんな情況をハリウッドは、指をくわえてただ横目で黙って見ているわけにはいきません。劇場から去って、家庭でTVに夢中になっている観客を呼び戻すには、家庭では絶対味わえない劇場ならではの差別化を図る以外にない訳です。ハリウッドがそこで考えたのが画面の大型化で、ワイドなスクリーンに映し出す迫力ある映像で、小さなTVの画面に見入っている観客を再び《シェーン、カムバッ~ク、シェーン》します。 

大型化するにはどうしたら良いか?。方法はいとも単純な発想です。《普通の画面を3枚横にくっつけて大きく見せる》なーんだ、シネラマの発想って、何と山頂から撮る撮影方法と考え方は、同じではないですか!。しかしながら発想は単純でも、三つのレンズをビルトインした大人の男性の体重くらいある大型カメラの複雑さ、3台の映写機でスクリーンに高さを合わせて(山頂での撮り方と出来上がったプリントのつなぎ合わせ方と同じ)投映する技術、明るさにバラツキがないか一定に保つ技術、完全にシンクロさせるメカニズムなどは、現在のテクノロジーならともかく、あの時代ではかなり高度な技術だったことはloydさんの記事で充分理解されると思います。 

CINERAMA」は「AMERICAN」のアナグラム(anagram)だと言う記事をどこかで読みました。うーん、僕的には全くノー・サンキューですね。それは結果論に過ぎないと考えます。深読みし過ぎです。では理由は?。再三言います。物事は単純な発想で良いと思います。CINEは《映画》、RAMAはギリシャ語で《光景》ですから二つの合体語だと考えます。現に先程の山頂から眺める《パノラマ》と言う単語は、英語は省略しますけどパノが《全》、ラマが《光景》、以下、ジオラマ(厳密にはディオラマ)のジオは《すごーい》、ラマは《光景》でそれぞれ合体語です。昔、車のマツダとFORDが提携したオートラマなんてもありましたね。《車》を《見》るにはピッタンコなネーミングでした。映画には合体語が見受けられます。Cinema-Scope、VISTA-VISION、PANA-VISION。それぞれ《-》で分けたら単独の英語になりますから合体語ですね。そんな理由で《文字を並びかえたアナグラム》ではない、と思う僕であります。 

あら、脱線してたらMGMのレオ君がガオ、ガオとがなり始め本編に入りましたね。 

ジョン・スタージェスの『決闘三部作』と勝手に我が国で呼ばれる作品がありますので、では僕なりに『西部劇タイトル曲三部作』と勝手に名付けるとしたら、『西部開拓史』、『荒野の七人』、『大いなる西部』をあげたいです。その三つの中で一番のお気に入りがこの西部開拓史の「メイン・タイトル」です。イケイケ・ドンドンとばかり、まーガンガン攻めまくる殆ど悲愴感は感じられないさすがフル・オーケストラによるスコアは前の《序曲》とはうって変わってダイナミックスさ満載で、いかにもアメリカ大陸的!、思わず観ている者を圧倒します。 
 で、ちょいとコーヒー・タイム。 

そうそう話すのを忘れそうでした。テアトル東京のカーテンは横開きですから、当然上部のカーテン・レールを横に走らす方法のメカニズムだと思います。確か旧帝劇、旧東劇のカーテンは演目が《本来は古典》ですから、カーテンは上に巻き上げるメカだったような記憶です。

テアトル東京のカーテンは、ふわっとした生地で縫製されていましたから、普段でさえ上部のカーテン・レール付近の移動の速さに比べ、生地自体に空気抵抗(生地がふわっとしているから)があるのかしら、下部の方ほど移動速度が遅く感じられたものです。 

そこへ来てこのレオ君のガオ・ガオにプラス、ガンガン・スコアですから、スクリーン裏側から大音響で鳴ったんじゃカーテンは更に《風圧?、音圧?》で揺らいでいた、と思い出すのです(笑)。このニュアンスは実際に見ないと理解されませんね、きっと。でも東京テアトルさんから提供された写真をご覧になって下さい。何となくイメージで解って頂ければと思います。 

さて画面上のクレジットは次のようになります。参考までに俳優の年齢を公開時(1963)の年齢で併記します。Carroll Baker(32),Lee J Cobb(52),Henry Fond(58),Carolyn Jones(34),Karl Malden(51),Gregory Peck(47),Geoge Peppard(35),Robert Preston(45),Debbie Reynolds(31),James Stewart(55),Eli Wallach(48),John Wayne(56),Richard Widmark(49)です。 

実は1963年に初めて観て以来48年間、このクレジットの順番(billing)は、何を基準にしているのか、どーしても解らないのです。アルファベット順?、出番順?、ギャラ順?、ではなさそうです。因みにIMDbではTop Billed Castと題して最初がJames Stewart、次がJohn Wayne、次いでGregory Peckになっていました。どなたか訳をご存知なら是非おききしたいです。今、改めて本作品のDVDを観るとソール・バスが、まだ出現しないこの時代のタイトルは、さほどクリエイティブなグラフィック要素を必要としなかったか、特に西部劇ではパシフィック・タイトル社(以下PT社)が主に手がけていました。ウエイン版「アラモ」は間違いなくPT社だったはずですが『西部開拓史』には表示がありません。毎回と言って良いくらい、特徴は俳優と役名をつなぐのに・・・・・を使いますが影を付けて《・》が立ち上がった(立体的)感じにするのです。『西部開拓史』では、特に立ち上がった文字ではありませんがライバル会社がなさそうだし、直感でPT社のような気がしただけで大した話ではありません。でも大作の影に隠れた小さな会社がデジタル化の発達した現在、どんなふうに生き延びているのかとても気になる僕であります。 

to be continued・・・・ 2011/11/12 Only The Lonely 


(第三章) 

loydさん、パシフィック・タイトル社の詳細情報ありがとうございました。やはり記憶は正しかったことになります。エンド・ロールの隅から隅までくまなく見ていた(物好きな)僕には、ウエスタン・エレクトリック社同様にとても懐かしく、そして2009年に消えていったとは、うー、悲しくなりますよ。このパシフィック・タイトル社、そして後年のソール・バスが手がけた数々のグラフィカルなデザインに興味津々だった少年の好奇心が、やがて彼らの足元に及ばないものの今の自分、そしてビジネスにあるように思えてならないのであります。 

さて豪快な「メイン・タイトル」が終わると、まさに『老人と海』(1958)のモノローグを思わせるスペンサー・トレイシーによる静かな語りで始まるロッキーの山々の美しい映像が広がります。まさに『これがシネラマだ』から流用した空撮映像です。 

■スペーサー
「参考画像②」(シネラマ映画『西部開拓史』より)

大型機の操縦席から撮られた映像は、いかにもトラベローグ・シネラマお得意の《左右にゆらゆら》しながらの不安定な意図的な撮り方ですから、湾曲したワイド・スクリーンで観ていた当時の僕ら観客は、スクリーンが動くどころか視覚的に劇場自体が動くように感じられハラハラして観たものです。ひとつには次の理由に起因しています。湾曲したスクリーンを比較的前方の席で《見上げるようにして》見ると、スクリーン最上端のR曲線と天井部とで作られる《半月状の空間》があるのに気付きます。その半月状スペースがスクリーンと一体化してぐるぐる回って見えるわけです。これが原因で『これがシネラマだ』では、公開時において一部の観客が気分が悪くなった理由が十分解ります。20余年後の『トップガン』(1986)では操縦席が宙返りするシーンでも驚いたものです。でも《雄大な空撮》そのものは、映画史上『これがシネラマだ』のこのシーンが初めてだったかも知れません(ホントかなー、ホントだよー)。 

物語の出発点はエリー運河の待合所から始まります。

 

■スペーサー
「参考画像③」(シネラマ映画『西部開拓史』より)

ここではMGMの秘蔵っ子、歌って・踊ってのオキャンなデビー・レイノルズがアコーデオンを演奏しながら歌う曲は、原曲が16世紀に生まれたイギリス民謡「グリーン・スリーブズ」で、上手くアレンジした「A Home In The Meadow」です。途中からカール・マルデンらも加わりちょっとラフに賑やかになります。驚いたことに彼女にアコーデオンの弾き方を指導したのはジェームズ・スチュワートなんですね。言われてみれば『夜の道』(1957)のジミーはアコーデンを上手に弾いていましたもんね。 

もう一つ驚いたのが、開拓民が乗るエリー運河の船は動力が備わってないのか、ラバがロープで牽いているではないですか!。但し15マイルまでかも知れません。ここではケン・ダービーとその合唱団、そしてキングストン・トリオのメンバーでもあった「The Whiskeyhill Quartet」(ちゃんと名前はクレジットされています!)らが、僅か30秒ちょっとですが「The Erie Canal」をバンジョーの調べに合わせ牧歌的に印象強く歌います。《♪ラバと一緒に行く旅はノンビリと。ラバは遅いけど働き者だよ。昼間は船を牽き、力と声を合わせて、エリー運河を15マイル♪♪》と。これは貴重なシーンですね。時代考証が優れています。蒸気船は金持ちやギャンブラーなどが乗りますから開拓民はこのような安価な料金の船を利用していたのでしょう。 

大型蒸気船(もしかしたら『愛情の花咲く樹』からの流用映像かも知れません)の映像でオシマイになる前半は、序曲からintermissionまでが約84分。この間、ブレナン河賊団の出現、リアからのスクリーンプロセスを駆使した激流下り、スタントマン大活躍のシャイアンの襲撃、黄葉の美しい枯れた金鉱での別れと、レイノルズが情感たっぷりに「A Home In The Meadow」を最後まで歌うショー・ボートでの男女の再会・誓い、とまー、エピソードがテンコ盛り!。時折流れる18世紀に生まれたアメリカ民謡が時に軽快に、時に切なく哀愁を奏で、A・ニューマンは盟友ケン・ダービーと共に実力を存分に発揮しフル・スロットルしています。 

河賊のパートで気が付いたのが二点。インチキ洞窟バーの看板が川辺に立っています。《LIKKER》と表示されています。近代なら《LIQUOR》が正解ですね。液体が《LIQUID》ですから語源は一緒でしょう。何故だかあの時代は《LIKKER》だったようで、料理(スープ)では「Pot Likker Soup」が今でも好まれているようだし、アメリカ民謡の「Likes Likker Better Than Me」が現代でも歌われているようです。これらの件、どなたか詳しく教えて頂きたいものです。もう一ヶ所はインチキ交易所の壁に「Home Sweet Home」のプレートが掛けられています。何故ですかね~?。アイルランド民謡ですから単純に彼らが故郷を想ってのことなのでしょうか。上手い小道具です。 

前半はちょっとミュージカル要素もありかなり楽しく進みます。D・レイノルズは吹き替えなしで《歌って・踊って》ますから貢献度は大です。決して大きくない体からあんなにも凄いパワーを引き出し、エネルギッシュに動き回れるとは早い時期から彼女の才能を見抜いていたMGM幹部は先見の明があったわけです。この『西部開拓史』は彼女には前哨戦みたいだったのでしょうか、次の作品『不沈のモリー・ブラウン』(The Unsinkable Molly Brown)(1964)では、彼女は第37回アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされるようになるのです。やるな~!、彼女!。 

to be continued・・・・ 2011/11/25 Only The Lonely 


(最終章) 

昨年の11月25日の第三章から何と半年ぶりのこの最終章。大変遅くなり申し訳ございません。でも51年前の今日は、実に《西部開拓史》が撮影開始に入った記念すべき日でありますのでお許しを(ペコリ)。 

《愛情の花咲く樹》(1957)から流用した大型蒸気船の風景で終る前半(84分)のオシマイには「INTERMISSION」の表示が24秒間続きます。シフォン風のふわっとしたカーテンが左右から閉まる為の必要秒数に合わせています。そして15分間の休憩に入ります。この15分は5人程度の映写クルーにとって大忙しの時間だったと想像します。前半のリールを外し後半のリールに掛け替え、スプロケットやランプハウスの清掃点検・映像と音響の再微調整・・。クルーにとってはもう少し時間が欲しいところですね。 

4分36秒間流れる「entr'acte」(幕間)では、A・ニューマンのオリジナル曲「How The West Was Won」を初め六つの偉大なアメリカ民謡による組曲がケン・ダービーやサミー・カーンによって開拓者の夢と希望を独創的かつ芸術的に表現されます。そして「When Johnny Comes Marching Home」、「The Battle Hymn Of The Republic」の力強く一気にピークに盛り上ったところで次の後半で始まる南北戦争を暗示させ、化粧室やロビーで寛いでいる観客に急いで着席しなければいけない事を促します。 

後半の冒頭はリンカーン大頭領が窓から外を見ています。24秒間です。ここでも先程と同様にカーテンが開く秒数に合わせています。最初のエピソードはジョン・フォードによる「南北戦争」。とりわけ評価が高いようです。 
僕が個人的に驚いたのは《ベビイドール》(1956)、《ジャイアンツ》(同)ではまだ子供だったキャロル・ベイカーが母親役を情感豊かに演じていたことです。実際には三つ年上のジョージ・ペパードの母親役で、戦争に行かせたくない気持ちと、反面、息子の自主性を尊重したい二面を静かな口調で上手く演じていました。今でも耳に残っている台詞は「なんだい、急に丁寧な話し方をして」とおねだりする息子G・ペパードに言いますね。よくある母と子の場面です。父親カール・マルデンの墓石の前で「お父さんの孫ですもの、頑固なの」と柵に手をやり泣き崩れるところは前にも書きましたが「西部劇タイトル曲三部作」の一つにしたい「メイン・タイトル」のオープニングの時の勇猛さとはうってかわり、まるで時が止まるかのように哀しいアレンジ曲と相まってとても印象的です。 

J・フォードはシネラマの特徴をよく理解していたと思います。まるで絵画から切り取ったかのような光景を美しいカメラワークで表現していました。左右に広がりのある、時としてシンメトリーな構図を上手く自然光を活用して、秀逸です。シネラマにはズームレンズがありません。むやみにズームを多用した作品が見受けられますが単焦点を利用した本作品はfixされた画面構成が功を奏したと思います。 

普通は焦点距離が35ミリ以下を広角レンズと呼びますが(35ミリカメラ換算)、シネラマレンズは27ミリですから21ミリ(見た感じがかなり不自然になります)の超広角より手前で、広角とのほぼ中間です。 

それでも下記貼付画像①で理解されると思いますが、主となる被写体はカメラに近いほど大きく、後方に行くほど誇張されて小さく写りますからこの画像では母親キャロル・ベイカーと最後方の長男G・ペパードとの立ち位置の距離はかなりあるように見えます。 

■スペーサー
シネラマ映画『西部開拓史』より)参考画像①

もう一つのシネラマレンズの特徴は画角が広いのは言うまでもありませんが、それに加えて被写界深度つまりピントが深い、手前から奥まで行き渡っていることです(下記貼付画像②)。ですからシネラマは広く更に奥まで写り込みむので余計な物が入らないようにスタッフはかなり気を遣ったようです。 

■スペーサー
シネラマ映画『西部開拓史』より)参考画像②

そうそう、画像②のシーンでは、G・ペパードは父親J・スチュワートが熊退治した時のかなり癖のある喋り方を真似しますね。さすが、役者、上手い。あの独特な飄々とした訛りのある喋り方の真似で場内爆笑。解っている映画ファンがいるので嬉しくなりました。 そしてこのシーンではフォードお気に入りのワンコがさりげなく使われています。恐らくアイルランド犬でしょうか。 

セシル・B・デミルの《大平原》(1939)を彷彿させる「鉄道敷設」では、工事現場の移動に合わせた簡易移動式テント小屋があり、中にはステージがあってショーを見る事が出来ます。当初の脚本では踊り子ホープ・ラングをG・ペパードが見とれているところに、まさに「俺が鉄道だ」と言わんばかりの会社忠実厳格人間のR・ウイドマークが現れ「俺のオンナだが好きなら手を出して良いぞ」と。まーウイドマークのキャラを考慮するとソリャナイから採用されず当然でしょうね(笑)。 

loydさんならホープ・ラングの眩しい肢体の踊り子姿の写真、お持ちではないですか?。

Hope Lange
■スペーサー
参考画像「ホープ・ラング」(Hope Lange)
(Hope Lange being photographed in a sequence later deleted.
Note obies on camera.)
"From How The West Was Won - in Cinerama site"

「鉄道強盗」のパートで面白い点を発見しました。ペパードが後任保安官リー・J・コッブに協力を要請するところで、コップは「ジェシー・ジェームズは死んだし(心配ない)」と乗り気ではないです。かの悪名高き有名な、かつ西部劇ファンなら誰でも知ってるのに日本語字幕では一切表示されていません!。まさか翻訳者がJJ(ジェシー・ジェームズ)を知らない、なんてないですよね~!?。why?。 

もう一ヶ所はノー・サンキューだったはずのコッブがなんと列車に乗っていましたが額には絆創膏が貼られています。と言う事はペパードに殴られたのでは?。がその殴られたシーンがカットされたのですね。聞いた話だと《サウンド・オブ・ミュージック》(1965)の「Sixteen Going On Seventeen」でチャーミアン・カーは撮影中に足首を捻挫して本番では包帯を巻いて撮影したようです。ビデオ・テープではハッキリ分かるようですが最近のリマスター版DVDでは包帯は巧く消されているようです。ならばコッブも。否、あれはあれで日常的で好感が持てて良いと思います。 


後半はちょっとミュージカル的な要素がある前半と異なり映画史上に残るバッファローの暴走シーンがあったり列車強盗があったりでアクション・テンコモリでシネラマには実にうってつけですね。そしてモニュメント・バレーを背にして伯母デビー・レイノルズと甥G・ペパード家族の新しい人生の門出を祝福するかのごとく高なるフル・コーラスによるグランド・フィナーレ、無論「A Home In The Meadow」である事は言うまでもありません。一部では本作品は不評です。白人の視点に立って、開拓される側の困惑・迷惑・被害、つまり先住民の悲劇が描かれていないからのようです。しかしジェームズ・スチュワートヘンリー・フォンダジョージ・ペパードらは彼らを軽視せず友好的に描かれていますね。本格的に先住民の立場に立ち同情的な作品は《シャイアン》(1964)、《ソルジャー・ブルー》((1970)、《ダンス・ウィズ・ウルブズ》(1990)を待たねばなりません。 

数年前にリリースされたリマスター盤で本作品を観ると、半世紀前の作品とは思えないまばゆいばかりの美しい映像とまさに包み込むようなキレの良いサウンドに驚かされます。更にシネラマ特有の二本のスジは最新のデジタルテクノロジーを駆使して消されています。参考までに貼付画像③と④で比較して下さい。でも子供の頃に観た三台のカメラで撮って、三台の映写機で映すシネラマには当然ながら二本のスジがあります。

二本のスジがあってこそ「これがシネラマだ」と死ぬまで僕は言い続けたいと思います。理由は単純で、第二章で述べたように山頂から大パノラマの美しい景色を写真に撮るには横に何枚かに分けて分割して撮る発想が自然だからです。そして何と言っても小学生の頃に観た本邦初のシネラマ、「これがシネラマだ」でスジがあろうと実に衝撃的であったからです。独断と偏見で「スジがないのはただのワイドスクリーンに過ぎない」と言えます。 


■スペーサー
参考画像③ 


■スペーサー
参考画像④ 

3台のカメラの隣接部のスジが視認出来る画像③(上部)と
デジタル・テクノロジー処理によりスジが目立たなくなっている画像④(下部)
シネラマ映画『西部開拓史』より)

あらっ、loydさんの貼付YouTubeCINERAMA 2012のPART1及び2を見てびっくり!。 半世紀前の本物の撮影機が現存しているとは!。僕も仲間に入れてほしいです。それにしても機動性の悪そうな撮影機ですねー。これで撮ったのだから立派です。おしまいの貼付画像⑤はシネラマの概念図です。下の方に小さく見えるのが撮影機です(ただし映写システムは旧帝劇です)。 

The key map of Cinerama-From This is Cinerama!
■スペーサー
参考画像⑤(シネラマの概念図)
(From This is Cinerama!)&
The Last Days of Cinerama (2012) 
"Full Documentary Short"

最後に。長期にわたり稚拙で駄文の投稿でありますが絶好の機会を与えて頂きましたloydさんに深く御礼を申し上げます。そして様々なサポートを頂き感謝致します。また東京テアトル様には貴重な写真を提供頂き、まことにありがとうございました。併せて御礼を申し上げる次第であります。 

ではご一緒に、アウェーイ、アウェーイ、カム・アウェーイ・・・。 

2012.5.28 Only the Lonely 



Today's Topics ! 

「真夏の(眠れぬ)夜の夢」とばかり急にひらめきました。どこかで今ごろ気が付いたのと声が聴こえますけど。長年疑問に思っていた「billing」はなんと立派なアルファベット順なんですね。アメリカの電話帳が確かlast name順でしたよね。と言う事は皆さんのfirst nameを消すと下記のようになります。 

Baker、Cobb、Fond、Jones、Malden、Peck、Peppard、Preston、Reynolds、Stewart、Wallach、Wayne、Widmarkです。 と、アルファベット順ではないですか!。 これで納得、いつでも眠れる・cineるー。 
2012.8.1 Only the Lonely 

オンリー・ザ・ロンリー氏は、『西部開拓史』における俳優のクレジット順番が、公開された1963年以来、今日までの48年間、何を基準としていたか、疑問に思っていたそうですが、この度、これは明らかにアルファベット順であったと解明されました。その執念とやらは並々ならぬもので、恐れ入った次第です。(loyd) 

 

では、loydさん、お元気で!!

 

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